なぜ体罰はダメなのか【体罰における教育と暴力の違い】
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どうもD.Fです。
2017年頃から部活などで体罰を受けたと言うニュースをよく目にします。
僕も居酒屋で仕事関係のおじさんと飲んでいると
「昔はよかったのに今はすぐに体罰だと問題になる。こっちは教育としてやってるのに・・・」と言う話をしてくる人が結構います。
この事について僕なりの見解でなぜ体罰はダメなのかを説明します。
まず僕の考えとしては、幼い頃から親父が「口で言って分からないなら叩いて教えるしかない」と言っていたので何か悪い事をしたら殴られるのが当たり前と思っていました。
それに僕の地元はまだまだ田舎なので中学の時は、先生に殴られたり、机を蹴られたり、廊下に立たされたり、なんて事があったので体罰はある程度の暴力や罰で指導・教育することだと捉えています。
実際に今思えば机を蹴り飛ばした教師にもよく頭を叩かれた親父にも感謝していますし、僕はそれらを教育だったと受け入れています。
しかし結論から言うと、父親の考えも机を蹴り飛ばした教師も間違っています。
言う事を聞かない人間に口で説明+説得が出来ないから罰を与えたり暴力をふるい、それを教育だと勝手に正当化しているからです。
僕が親父や過去の教師に感謝しているのは「怖いから」と理由で言う事を聞いていたが結果的にそのおかげで間違いに早く気づけたと何年か経ってから分かったからです。
当時の僕は親父と教師の体罰を教育などと捉えていませんでした。
自分が間違っていると思っていなかったですし、ただただ親父と教師が怖くて言う事を聞いていました。
しかし後から納得できたから教育として受け止められたのです。
今の体罰に対する考えが厳しくなったのは、納得できない体罰が増えたからです。
時代はどんどん変わっていき、時流はどんどん速くなってきています。
新しいルールが出来て、昨日までの非常識が明日からは常識に変わるかもしれない
そんな中、昔からある常識を教えた所でそれを判断するのは教育を受けた側です。
現にYouTuberという職業が今は世間にも認められ始めていますが、初めの事はyoutuberの方々はかなり馬鹿にされていましたよね。
今では「子供のなりたい職業ランキング」にランクインするほどになりました。
これが先程書いた新しい常識やルールの所に当たります。
体罰における教育と暴力の違いは体罰を受けた側が納得できるか出来ないかで決まります。
例としてAさんがBさんに対して自分の言う事を聞かせたいと思った時にBさんに何度言っても分かってもらえないからBさんの頭を叩いたとします。
後日BさんがAさんの言っている事が正しかったと納得した場合、これは教育です。
しかしBさんがAさんの言っている事にいつまでたっても納得できなかった場合、Aさんがおこなった行為はただの力による支配に変わってしますのです。
その人が納得するかしないかは、その本人にしか分かりません。
ましてや暴力はどんな理由があれダメです。
体罰は時として楽に人を制圧する事が可能です。しかしそれは自分の正解や常識を押し付けているだけです。
教育する側は体罰によって訴えるのでは無く信念を持った態度や行動を示し納得させる努力が必要なのです。
これは簡単な事ではありませんが本当の意味の教育はこういう事だと思います。
逆に教育を受ける側も自分の目で「正解は何なのか、何が間違っていて何を自分の中の答えとするのか」をしっかりと自分の目で見て確かめる必要があります。
これらが教育する側と教育を受ける側の誠意ある行動であり義務なのです。
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